スーパー秋葉原

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40からの転職


40歳超の転職に失敗する人と成功する人の差

「40歳を過ぎてからでも、転職はできますか?」

この質問に単純に回答すると以下になります。

「職業を選ばなければ、また、年収や勤務地などの労働条件にこだわらなければ、すぐにでも転職できます」

「転職35歳限界説」は過去の話となりつつあるが…

厚生労働省が毎月発表している「有効求人倍率」は、2018年1月時点で1倍以上が続いているだけでなく、1974年以来、実に43年ぶりの高水準である1.5倍以上になっているので、数字のうえではこだわりさえ捨てれば、仕事に就ける可能性は極めて高くなっています。

「人手不足」は、今やあらゆる企業において死活問題になっています。AIやデータサイエンスが活況なIT業界はもちろん、宅配業界ではドライバー不足が大きな問題になっていますし、建設業界、建築業界も、東日本大震災の復興や東京オリンピック・パラリンピックの会場やホテルの建設など、仕事が急増したため人材がなかなか確保できない状況が続いています。医療や介護の現場、さらには保育の現場などでも深刻な人手不足が叫ばれています。

拙著『40歳からの「転職格差」 まだ間に合う人、もう手遅れな人』でも詳しく解説していますが、職を選ばなければ、年収や勤務地などの労働条件にこだわらなければ、40歳を過ぎていても現在の日本で転職することは十分に可能です。実際、年齢にこだわらない求人数は確実に増えていますし、こうした求人に応募して転職するミドルも間違いなく増加しています。かつての「転職35歳限界説」は過去の話となりつつあります。

ただ、現実には、職業や給料、勤務地にこだわりなく仕事を探す人はほとんどいないため、満足度が高い転職を実現するには、一人ひとりまったく異なる難易度になってしまいます。特に40歳を過ぎると、受け入れてくれる求人企業は激減するので、「こだわり条件の数」や「こだわり水準」によっては、自分が求めているレベルの求人がほとんどない、結果として転職活動が進まないというケースも激増することになります。

こうした場合、当初の希望とはまったく異なる業界・職種、雇用形態を受け入れざるをえなくなる場合も出てきます。ある事例では、「年収900万円が時給900円になった」という話も聞きますが、こうした現実は日々当たり前のように起こっています。

同じ大企業からの転職で明暗分かれた2人…

ある2人の転職事例を紹介しましょう。1人目は、大手家電メーカーの管理部門で企画系の仕事をしていたAさん(47歳)。もう1人は、まったく同じ会社・同じ部門で仕事をしていた、Aさんより10歳年上のBさん(57歳)です。

Aさんは、転職の際、転職マーケットの事前調査をまったくやらずに転職活動を行いました。大手家電メーカー時代と同等の条件にこだわり、エリアは東京の山手線の内側、業界は同じ家電メーカー、役職も部長以上、年収は1200万円以上といった希望でした。

そんなAさんの希望を満額で満たす求人はほとんどなく、エージェントからも紹介案件はありませんでした。しょうがなく、Aさんは自分で求人サイトでも探しましたが、やはり条件に合う求人はありません。

何度か、給料の表記のない求人に応募しましたが、面接で給料を聞くと、希望の半分の600万円などと言われ、自ら辞退したそうです。半年経って、多少条件を緩和しましたが、それでも希望の求人はなく、1年経っても転職は決まりませんでした。

転職活動をしているといっても、条件に合う求人がないのですからやることがなく、親族の会社の手伝いを始めました。社員ではなく、あくまでも手伝いです。

部長職という役職や、年収1000万円以上という条件は譲れず、状況はより厳しくなっています。47歳という年齢で、ブランクが1年以上になると、書類選考段階で「Aさんには何か問題があるのでは?」という先入観を持つ企業も増えてしまうためです。

Aさんは転職活動を始めたころに自ら辞退した求人について、「あれを受ければよかったな」と、ちょっと後悔しているようです。しかし、もうそのときに戻ることはできません。

一方のBさんは、Aさんより役職は上でしたが、年齢が57歳ということもあり、最初から転職活動は厳しいものになると覚悟していました。そのため、ある程度、事前調査をやってから転職活動を行いました。転職の際のエリア、業界、職種、年収にもこだわりはなく、転職活動を始めたときから、いろいろな業界の企業の面接を受けていました。

大手企業にいたにもかかわらず、企業規模にもこだわりはなく、職種も、営業系の部長のポジションや、それより下のマネジャークラスの求人であっても話を聞きに行きました。転職マーケットの調査・分析だけでなく、並行して自己分析も行っており、自分の強みは、どんな商売であっても、状況を正確に分析して、変化の材料を集めて、そこに戦略の勝ち筋を見つけていくことだと言っていました。そして、「できれば、それがやりたい」という希望を熱く話していました。さらに、「エクセルやパワーポイントも自由に使えるので、部下がいなくてもいい」とまで言っていました。

転職活動を始めてから8カ月後、Bさんの転職先が決まりました。行き先は中堅住宅メーカーで、年収は前職の3分の2、1500万円から1000万円ぐらいに下がりました。企業規模はだいぶ小さくなりましたが、それでもれっきとした上場企業です。

職種は、経営の企画系と同じですが、業界は家電から住宅とまったくの畑違いへ。商慣習も違えば、風土も違うところへの転職となりましたが、中堅住宅メーカーの会長からとても気に入られ、会長直轄の未来戦略を描く経営企画室長として三顧の礼で迎えられました。相思相愛で入社されたBさんは、現在もその企業で活躍されています。

ミドル転職に失敗する人に共通するポイント

同じ大手家電メーカーからの転職でも、これだけの「転職格差」があります。スタート地点はほぼ同じだったにもかかわらず、Aさんは1年間転職活動を行っても転職先が決まらず、Bさんは8カ月で自分が活躍できる企業、職場を見つけることができました。

47歳と57歳ですから、一見すると47歳のAさんのほうが年齢的には転職に有利だと思われるかもしれませんが、結果は逆でした。Aさんの転職がうまくいかなかったのは、率直に言って、条件を細かくたくさんつけたからです。

しかも、その条件が大企業勤務時代と同じ。求職者の多くは、前職と同じ業界への転職を希望します。「〇〇業界で何十年と仕事をしてきたのだから、自分の能力を生かせるのは〇〇業界しかない」。こう考えてしまうのです。そして、職種も同じです。「△△職を長く経験して多少なりともスペシャリティを磨いてきた。△△職の仕事なら求職もあるだろうし、自分も活躍できるはずだ」。

自分の強みは、「同業界の同職種にある」と考えているため、転職の際も同業界の同職種を希望する人が多いのです。「自分がこれまで積み上げてきたものを捨てたくない」。こうした心理も間違いなくあるでしょう。Aさんは、「家電以外は考えられません」と言っていました。自分が積み上げてきた、せっかくのキャリアを今さら捨てられるか、という気持ちになるのもよく理解できますが、そこにワナがひそんでいるのです。

このワナにはまらないためにも、事前の転職マーケットの調査が不可欠なのです。Bさんは、事前に転職マーケットをある程度調べたことで、現在と同じ年収をもらうことはほぼ無理だろうとわかっていました。3分の2、下手をしたら半分になることも覚悟していたかもしれません。こうした転職マーケットの情報や知識を早期に学んでいたからこそ、早い時期から業界にも、職種にも、企業規模にも、こだわらずに話を聞きに行ったり、面談に行ったりできたのだと思います。

表面的な条件にこだわりすぎるな

では、Bさんにはこだわりは1つもなかったのでしょうか。そうではありません。きちんと、こだわるべきポイントにはこだわって、転職活動を行っていました。それが、「自分が必要とされる場所はどこか」「自分が活躍できる場所はどこか」といったことです。

Bさんは、エリアや業界、職種、役職、年収といった表面的なレイヤーでのこだわりは捨て、1つ上のレイヤーと言えるかもしれませんが、別のもう少し抽象的なレイヤーでこだわったのです。表層的な条件にこだわるのか、仕事の中身や自分のやりたいことにこだわるのか、と言い換えてもいいかもしれません。

転職がうまくいかない人は、「自宅から1時間以内」というエリア条件や、「年収は最低でも800万円以上」という収入条件、「役職は課長以上」というポジション条件などに、「今、このタイミングでこの条件が満たされないと対象外」というくらい、厳格にこだわる傾向があります。

せっかく転職の決意をして新天地を探すのですから、こだわりをもったり希望条件を掲げたりするのは当然のことです。しかし、あまりにもさまざまな条件にこだわり続けることで、本来生き生きと活躍できたであろう会社・職場に転職する機会を逃してしまうリスクも多々あります。どういった点にこだわり、どういった点についてはこだわりなく転職活動を行うべきなのか――その判断が「ミドル転職」では大切になるでしょう。




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日記

定年入門

再就職せずに60歳で"隠居"した人の本音
定年したら隠居して、のんびりと暮らしたい。そう考えている人も多いだろう。『定年入門』(ポプラ社)でノンフィクション作家の高橋秀実氏が取材した「隠居生活」を送るある男性は「とにかくダラダラと楽をしたくて、再就職どころか習い事もしていません。釣りもカネがかかるから止めました」と語る。はたして、そんな老後は本当に幸せなのか――。
※本稿は、高橋秀実『定年入門』(ポプラ社)の一部を再編集したものです。
「イヤでイヤでしょうがなかった」
「私の父は工場勤めでした。勤務は朝8時から午後5時まで。工場と社宅の往復の日々。その生活が私の理想でした。そういう生活をずっとしたかったんです」
しみじみ語るのは大手スーパーを60歳で退職した竹山亘さん(63歳)である。大学卒業後、スーパーに入社して勤続38年。定年は65歳だったが、「もうイヤでイヤでしょうがなかった」そうで早期に退職したという。
「要するに、スーパーは楽だと思ったんです。もともと私は特にやりたいこともありません。ただ『楽したい』。楽して生きていきたいというのが昔からの願いなんです」
――それで実際のお仕事は……。
私が訊くと、彼は微笑んだ。
「スーパーって商品の並べ方によって売り上げが変わるんです。それが面白いと思いました。それでなぜか自分にもつとまっちゃったんですね」
――つとまっちゃった?
おそらく謙虚な人なのだろう。実際、彼は3年間の店舗勤務の後、本社に呼ばれたらしい。商品部に配属され、瞬く間に衣類部門の責任者に。以来、商品の買い付けはもちろんのこと、毎週開かれる全国店長会議に出席。「それほど変わらないのに、毎週毎週、売り上げの分析やら目標設定などをしなければならない」という激務に追われる。毎朝6時半発の電車に乗り、帰宅は夜11時過ぎ。休みは年間にわずか30日で、「楽」とは程遠い生活を送ることになったそうである。
上に行けば行くほど働かされる
「本当に失敗しました」
うなだれる竹山さん。
――何が失敗だったんでしょうか。
彼の担当部門は年間1000億円も売り上げていたというくらいで、会社からも評価されていたのではないだろうか。
「51歳の時に長年のストレスで血管が詰まって心筋梗塞。バイパス手術を受けたんです。その2年後には今度は心臓の弁が動かなくなって、再び大きな手術を受けました。ですから私は『身体障害者1級』なんです」
――そうだったんですか……。
「会社って上に行けば行くほど働かされるんです。私は別にエラくなりたいわけじゃない。ただ、ずっとこの仕事を続けていたいと思っていただけなんですが、いつの間にか先頭に立っていまして。やっぱり5番目くらいがちょうどよかった」
――5番目?
「同期で5番目ということです。ちょっと遠く離れた田舎で店長をする。売り上げも抜群の成績でもなく、かといって悪くもない。点数でいうと80点くらい。ちょっと上の成績という感じで、話題にならず、目立たないようにする」
――実際、そういう方はいたんですか?
「いましたね。彼は昇進試験も受けずに、静かに店長を務めていました。上司からも推薦がかからないので出世もしません。しかし彼は65歳の定年まで勤めました。私のほうが年収は高かったけれど、彼の年収なら5年で4500万円くらいになるので、生涯賃金にすると彼のほうが結局高かったんじゃないかな」
頑張ると損するということか。実際、彼は体を損なってしまったのだ。
「心臓の手術を受けてしばらく会社を休んでいた時、たまたま古本屋で『ご隠居のすすめ』という本を見つけまして。その本に、隠居するなら早いほうがいいと書いてありましてね。それで隠居したいと思ったんです」
定年は「隠居」の年
退職ではなく「隠居」。何やら「引退」に似ているが、調べてみると戦前の民法では「隠居」はれっきとした身分だった。参考までにその条文(第752条)は次の通り。
戸主ハ左ニ掲ケタル條件ノ具備スルニ非サレハ隠居ヲ爲スコトヲ得ス
一、滿六十年以上ナルコト
二、完全ノ能力ヲ有スル家督相續人カ相續ノ單純承認ヲ爲スコト
隠居とは戸主権の放棄。家督、債権や債務を子供に譲り、主から家族の一員となる。要するに、家制度の責任から解放されるのである。この条文で気になるのは、満60歳以上でなければならないという規定だ。奇しくも高年齢者雇用安定法に記されている「定年は、六十歳を下回ることができない」(第8条)と同じ内容で、なぜこのように定められているのかというと――、
隠居の制度は我國古來より行はれたる制度にして、通俗に樂隠居又は若隠居と稱し任意に戸主の地位を退き得たるが如きは之れ畢竟安樂に餘生を送らんとするに出づるものにして世人を遊惰に導き安逸の風を助長し不生産的の者を増加するの虞れあり
(沼義雄著『綜合日本民法論(3)』巖松堂書店 昭和8年)
隠居は日本の伝統的な制度で、日本人は若いうちから隠居したがるのだという。それを認めてしまうと世の中に「安逸の風」、つまり安んじて楽する風潮が広まってしまうので、「満六十年以上」という年齢制限を設けたのだ。
もともと日本人(特に男)は楽したがる。責任を放棄したがる。ゆえに60歳までは我慢しなさいという法律だったのである。もしかすると「定年」も同じかもしれない。
60歳になったら「辞めなくてはいけない」ではなく、「もう辞めてもいい」という隠居の精神が生かされていたのではないだろうか。
とにかくだらしない生活を送りたい
竹山さんは生命保険の満期を迎える60歳で退職した。「とにかく早く辞めたい」という一心だったそうで、「そのまま働いていたら、今頃こうして生きてないですよ」と後悔もしていない。
――辞めて、まずどうされたんですか?
彼ははにかんだ。
「私は特にやりたいってことがないですから。趣味もありませんし。ただ、楽したい。だらしない生活をしたいと思いましたね」
――だらしない、ですか?
「例えば、信号が点滅するでしょ。以前だったら、変わる前に早く渡らなきゃ、と急いでいたんですが、それをやめてゆっくり歩く。まわりの人に合わせない。自分のペースでゆっくりと。それだけで違った風景が見えてくるんですよ」
彼はまず生活態度を変えたそうなのである。
――他には何か……。
「何かしなきゃいけない、と思って公民館にも行ってみました。いろいろなクラブを見学してみたんですが、ああいうところには必ずボスみたいな人がいるんです。それじゃ会社に行くのと同じじゃないですか。蕎麦打ち教室にしても、『教える』『教わる』という関係自体が力関係ですよね。私は長年の癖で、人に会えばついニコニコしちゃう。そんなのしたくないんです。この前も釣りに行ったんですけど、釣りに来ていた人が、そこに住んでいるホームレスのおじさんに『バケツ持ってきてくれよ』とか命令してました。人に何かを頼むなら『バケツ貸してください』と言うべきでしょ。そういうのを聞いただけでも、もうイヤになっちゃうんです」
小遣いを銀行振り込みにしてもらった理由
会社を連想させるものはすべて拒絶したくなるのだろうか。聞いていると、何もかもイヤという勢いなので「釣りもされるんですか?」と趣味らしき話に戻そうとすると、彼はこう説明した。
「前は週1回か2回行っていました。でもエサ代が高いんですよ。350円もしますから。途中で日経新聞を買ったりすると、それでもう500円になっちゃう。大体、僕の小遣いは月1万5000円ですから」
――決まっているんですか?
「はい。自分でそう決めました」
――自分で?
「そうです。それで毎月1日に女房が銀行口座に振り込んでくれる」
――銀行振り込み?
「そうしてくれと私が頼んでいるんです」
――なぜ、なんですか?
直接手渡すほうが「楽」ではないだろうか。
「たとえ手渡されても自分で入金に行きます。会社員の癖ですかね。定収入という感じを続けたいんです。必要があればキャッシュカードでおろすんですが、そのたびに残高を確認し、残高を維持する。残高はずっと維持してますよ」
竹山さんはうれしそうにそう語った。定収入による安定感。何かひとつ安定させることで安心感を得るのだろうか。
「飲み会にも誘われますけど、今はほとんど行きませんね。もう、群れるのがイヤなんです。趣味の合う人を『同好の士』とか言いますけど、実際はなかなか見つからないと思うんですよ。イヤな人とは会いたくもないし。僕にとって一番の同好の士は女房です」
きっぱりと断言する竹山さん。安定感の源は奥様なのである。
「隠居したらふたりきりの生活だと思っていました。ふたりで旅行に出かけたり、農園を借りて野菜づくりしたり。ところが娘の旦那が海外勤務になりまして、娘が孫を連れて同居しているんです。だから毎日孫の相手をしなくちゃいけません。これが本当に大変でしてね。本を読んでいるとお腹に乗ってきて噛みついたり。子育てってこんなに大変だったのかと、今更ながら女房に感謝しています」
会社員生活を「失敗した」などと振り返られるのも、きっと奥様のおかげなのだろう。よく聞けば、彼は母親の介護もあり、実はかなり多忙らしい。「楽したい」というのも忙しいからこそ「楽したい」わけで、「楽したい」と願い続けるということは、ずっと忙しいという証しなのである。
「引退」も「隠居」も男のロマン
彼が「隠居」を決意するきっかけとなった『ご隠居のすすめ』(木村尚三郎著 PHP研究所 1997年)を読んでみると、確かに「可能な限り早く現役を終えて、隠居生活に入るといい」と書かれていた。
早めに仕事を辞めて隠居生活に入れば「心の充足感」を覚え、「モノからの自由」「時間からの自由」「情報からの自由」という3つの自由を手にし、「自分が自分であることを実感する」ことができる、などと指南しているのだが、「あとがき」によると、著者自身は定年まで大学教授を務め、その後は中央官庁や地方自治体、民間団体などの数々の役職に就いていた。
本の執筆や講演などもこなし、「肉体的には、つらいこともある」などとぼやいており、著者本人はちっとも隠居などしていないのだ。
おそらく「引退」も「隠居」も男のロマン。その言葉を使えば気楽になれるという一種の呪文なのかもしれない。
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高橋秀実(たかはし・ひでみね)
ノンフィクション作家。1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『ゴングまであと30秒』『にせニッポン人探訪記』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国 ニッポン』『はい、泳げません』『趣味は何ですか?』『おすもうさん』『結論はまた来週』『男は邪魔!「性差」をめぐる探究』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』『日本男子♂余れるところ』など。



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日記

天才少年


天才少年が小5の夏に考案"分数ものさし"

2月の発売以前からネット予約注文が殺到

プレジデント誌の連載「著者インタビュー」史上、おそらく最年少の“著者”の登場である。

静岡県浜松市に住む山本賢一朗さんは現在中学1年生。小学5年のとき、ある着想から独自の“理論”を体系化。その結晶が「分数ものさし」だ。

「本」の中には後述する独特な目盛り付きの定規と、理論を子供にもわかりやすく解説した文章、さらにドリルがついている。2月の発売以前からネット予約注文が殺到し、教育関係者を中心に「算数の壁をクリアできる魔法の教材だ」と話題となっている。

「作るきっかけは、友達でした。1個のリンゴを2つに分けると“2分の1個”。この分数の意味がわからない子がいて、何とかわかってもらえるツールを作れないかと思ったんです」(賢一朗さん)

小学4年生以降に学ぶ、分数。ここでつまずく子は多い。

「2分の1」の理解ならまだしも、異分母の計算に手こずるケースは少なくない。2分の1+3分の1は、通分して6分の3+6分の2=6分の5。わかる子はすぐわかるが、2分の1=6分の3、が腹落ちしない子は多い。

そんなややこしい概念を、長さ15センチのこの分数ものさしは視覚化することができる。

「分数を“整数”に置き換えれば直感的にわかるんじゃないかと思って。そうすれば、比・割合などその後の勉強もわかる」(同)

実際、その友達の成績は向上し、分数を習っていない未就学児や小学校低学年でも、この分数ものさしを使ってスイスイと分数の加減乗除をこなす子もいるという。

現在は「35キロの津波」の体験キットを作成中

開発のヒントとなったのが、京都大学の生協で販売していた「素数ものさし」。目盛りは2、3、5、7、11、13のみ。これに触発されてコンセプトがひらめいた。学習塾を営む父親や静岡大学の教授の協力も得て、アイデアを形にすることに成功した。

小さい頃からパソコンやゲームに親しむ「デジタルネーティブ世代」。小学校低学年の頃から、ゲーム攻略法の動画を作成していたユーチューバーでもある。そんなデジタル脳が行きついた先は、ものさしというアナログだった。

昨年は津波体験キットを作成し、現在特許出願中。足下におもりやエキスパンダーの負荷をかけることで、平均時速35キロメートルの津波の衝撃を体験できるという。

「津波の怖さを実感できます」(同)――“教育開発”の天才出現、といったところか。

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山本賢一朗(やまもと・けんいちろう)

2005年、静岡県生まれ。小学5年の夏休みの自由研究で考案した「分数ものさし」を使った足し算・引き算の計算法が浜松市小・中学校発明くふう展で優秀賞受賞。静岡大学教育学部・塩田真吾准教授の協力で、掛け算・割り算の方法も完成。



過去記事

分数ものさし"を発明した浜松の天才少年

分数は小学校算数の大きなヤマ場だ。多くの子は、これまでの整数の計算との混乱でつまずいてしまう。そんな分数を直感的に習得できる教材を発明した子がいる。

算数の落ちこぼれを救った「分数ものさし」開発秘話

算数が苦手という話になると必ずといっていいほど登場するのが「分数の計算」だ。とりわけわり算は、大人ですら「どうしてひっくり返してかけるのか、さっぱりわからない!」と開き直ってしまうことも珍しくないだろう。

静岡県浜松市の中学1年生、山本賢一朗君も小学5年生の頃、友達からそんな相談を受けた。

以前から友達から勉強の相談を受けることが多かった賢一朗君だが、分数の計算の説明には苦労した。かけ算なのにどうして答えが元の数字よりも小さくなるのか。反対に割り算なのに大きくなるのはどうしてか。そして、なぜ割る数の分母と分子をひっくり返してかけるのか……。何度説明してもなかなか納得してもらえない。

「どうにかして簡単にわかってもらえる方法はないかな……。はじめは、円盤をピザを切るように扇形に等分して説明できないかとも思いました。でも、それでは計算の説明には無理がある。考えあぐねていたんです」

ずっと考えていたある日、賢一朗君は塾を経営する父・裕一朗さんから1本の「ものさし」を渡された。「素数ものさし」だ。裕一朗さんは息子が悩んでいるのを知っていたが、塾で教える立場でも、子供たちがつまずきやすい分数の計算をわかりやすく説明することは切実な問題。さまざまな教材を調べるうち、素数ものさしに出合った。

「素数の部分にだけ目盛りがついているものさしです。京都大学の生協で売られているもので、修学旅行で京都に行った教え子に買ってきてもらったんです」(裕一朗さん)

素数、つまり、2cm、3cm、5cm、7cm、11cm、13cm、17cmにしか目盛りがついていない。当然、ものさしとしては実に不便である。

「でも、そこがいい。素数以外の長さも、工夫すれば測れないこともない。そういった、ちょっとゲーム感覚の面白さがあって、しかも素数を『視覚化』しているところが興味深いですよね」(裕一朗さん)

素数ものさしを見ていて賢一朗君はひらめいた。目盛りのつけ方を工夫したものさしで、分数が説明できるのではないか……と。

分数を整数に置き換えるという画期的発想

ここで、分数ものさしの仕組みを説明しておこう。

賢一朗君は12という数字に着目した。12は2でも3でも割り切れる、約数の多い数だ。だから12等分の目盛りをつけておけば、12分の1はもちろん、2分の1、3分の1、4分の1、6分の1も表すことができる。

分母が2、3、4、6の分数はどれも分母が12の分数に置き換えて考えることができるから、たし算やひき算の計算はすぐにできる。このアイデアは素数ものさしを見てすぐに浮かんだという。

賢一朗君は、5年生の夏をまるまる使い、分数ものさしを形にまとめた。夏休みの自由研究の作品として提出すると、浜松市の小中学生発明くふう展で優秀賞に輝いた。

「分数ものさし」で分数の加減乗除ができる

しかし、賢一朗君はこれで満足したわけではなかった。かけ算、わり算も説明できるはずだ、と考えたのだ。

そんな賢一朗君の様子を見ていた裕一朗さんは、自分の母校である静岡大学に、この分数ものさしを持ち込んでみた。すると、同大教育学部の塩田真吾准教授が興味をもってくれた。塩田准教授から改良へのアドバイスと課題をもらいながら、少しずつ改良を重ねた。

たとえば、わり算のアイデアが生まれた原点がマグネットを使った試作品だ。12分の1や12分の2が1個ずつ別々になっている。12分の1を並べているうちに、2分の1や3分の1を整数に置き換えるというアイデアが思い浮かんだのだ。

例えば6分の1÷2分の1の計算。6分の1、2分の1はそれぞれ、「12分の1がいくつ分」と整数に置き換える。6分の1÷2分の1は「2個」を「6個」で割ること、つまり、2÷6=3分の1と計算できるのだ。

「この『整数に置き換える』アイデアを賢一朗がもってきたときには、わが子ながら驚きました」

分数の計算がわからない――そんな友達の相談を受けてから1年。ついに賢一朗君の満足いく「分数ものさし」ができあがった。大学がお披露目したところ様々なメディアから取材を受け商品化も決まった。

「こだわったのは小学生の筆箱に入る15cmで作ったこと。特別な教材ではなくて、普段から使うことで分数感覚が自然と身につくと思います。たくさんの人に使ってもらえるものができたらいいなとは思っていましたが、本当に商品になるなんてびっくりしました」(賢一朗君)

父曰く「天才じゃない」から発明できた

分数ものさしの開発譚を聞いていると、賢一朗君はさぞや天才少年なんだろう……と思えてしまうが、父親の裕一朗さんから見るとまったく逆なのだという。

「仕事柄たくさんのお子さんを見てきました。そのなかには、いわゆる『地頭のいい子』も何人かいました。でも賢一朗はまったく違うタイプ。興味のあるものはどんどん吸収するんですが、それ以外のことは何度教えてもなかなか覚えない。経験上、幼児期から低学年くらいまでに、基本的な学習能力は決まると思っています。ムラのあるタイプの子は、勉強量をできるだけ積み重ねて、もっている素質の底上げをしておく必要があると考えていました」

裕一朗さんは賢一朗君に「おまえは天才じゃないから努力しろ! 他人の100倍勉強しないとだめだ」と宣言。テスト前、賢一朗君の勉強内容をチェックして「この程度で安心していいのか? まだまだだろう!」とできるまで机に向かわせた。時には夜10時や11時になることもあったという。

「あの頃は賢一朗にいつも厳しく、冷たく接していましたね。毎日泣かせていましたよ」(裕一朗さん)

中1になった今は「津波体験キット」作りに夢中

そのかいあって、賢一朗君の学校の成績はぐんぐん伸びて、クラスで勉強のことを頼られるような存在となったのだ。しかし、そんなにスパルタな父を賢一朗君はどう感じていたのだろうか。

「はじめのうちはつらかったです。でも、言われた通りコツコツやっていると勉強ができるようになってきて……。ああ、こういうことも大切なんだなと思うようになりました。いまは、やってよかったなと思っています」

「つらくあたった」と話す裕一朗さんだが、生活のすべてを勉強でがんじがらめにしたわけではない。賢一朗君はむしろ多趣味といっていいだろう。運動だけでもサッカー、テニス、卓球、水泳、剣道。幼稚園から続けるピアノでは4年生で全校の伴奏をやるようになり、浜松市音楽科研究発表会の伴奏にも選ばれた。作曲もこなす。また、読書感想文コンクールも入賞常連となった。

「習い事で学んだのは頑張らなくちゃいけないときは頑張るということ。コツコツやってきた結果が出たのが4年生頃かな」(賢一朗君)

中学生になった賢一朗君。ある日突然、「津波の力ってどれくらいかなあ」と言いだした。東日本大震災の映像を見て津波の恐ろしさを知ったからだ。

水圧などについて習った賢一朗君は、足に巻くおもりとエキスパンダーを組み合わせ、津波の引き潮を体感できるキットをつくり、夏休みの自由研究として提出した(浜松市小中学生理科自由研究展銅賞。特許申請中)。中学3年間をかけて津波に取り組んでみたいという。

「常に頭のなかに、これってできないかな、というアイデアがいくつかあるんです。津波もそうですし。たとえば、ベクトルをうまく説明できないかとか、あとワープって本当にできないかな、とか……。そんなことを考えたり、工夫したりするのが好きなんですね」(賢一朗君)





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日記

貧困社員


生活保護なしでは食べていけない… Amazonには多くの貧困社員が存在

世界一の富豪のアマゾン、倉庫を支えるのは尿瓶、生活保護の人たち

雇用創造の神、Amazon(アマゾン)。

雇用5万人を生む第2本社の誘致合戦で、ニュージャージー州が70億ドル(約7660億円)の税金を控除すると言い出したり大変なことになっています。けど、英国Amazon倉庫では尿瓶なしでは梱包ノルマもこなせないというし、米国では生活保護なしではまともに食べていけない貧困社員も意外と多く、誘致後の未来は思ったほどバラ色でもないようです…。

Amazon社員だけど配給暮らし

The Interceptが調べた公的記録によると、現在Amazonは米国内5つの州でフードスタンプ最大受給企業TOP20に数えられており、アリゾナ州では社員の実に3分の1までもがフードスタンプ暮らし(フードスタンプはレジで食料購入するときに使える配給券で、米農務省が低所得層に補助的栄養支援プログラム[SNAP]で支給している生活補助)。長者番付世界一のジェフ・ベゾスが経営する一流企業なのに、 底辺は生活補助を受けているブルーカラーということになります。

また、Amazonは今週アメリカ労働安全衛生全国委員会が発表した「The Dirty Dozen 2018(もっとも死傷者の多い12の企業)」にもTeslaと一緒にランクインしてしまいました。労務中の死亡者は2013年から数えると計7人にのぼります。うち3人は昨年、3週間という短期のうちに相次いで亡くなりました。一時雇用には派遣会社を使い、いざ労務災害が起こってもAmazonには火の粉が降りかからないようにしている...と報告されていますよ。

LAの東のサンバーナディーノ市のような、地盤産業のないさびれた地域に、仕分けや梱包の単純労働を生む倉庫の建設を約束して、行政から税金を大幅にまけてもらったうえに、税金で賄うフードスタンプまでもらうなんて、長いスパンで見ると、巧妙と言われても仕方ないようなところもあります。The Atlanticによると、倉庫ワーカーは勤続1年経たないと福利厚生を得られず、激務で1年もたない人もいるそうです。欠員を埋めるのはもっと不安定な季節労働、非正規雇用の人たちで、こっちは福利厚生も勤務時間の保証もありません。生活補助が必要になると、それも行政もち。…ですからねぇ。

ちょうど春休み、訳者も北カリフォルニアから南のコーチェラの砂漠までドライブしたときに、山火事の焼け跡も生々しいサンバーナディーノの辺りを通ったんですけど、本当になんにもない荒野の真ん中に突然に町が現れて、「みんな何して暮らしてるんだ!」と叫びっぱなしでした。

で、しばらく走ったら巨大な倉庫街がドーーーーンと現れて、「あーなるほどなー」と。いやあ、地元から見たらAmazonはまさに救世主ですよ…。

実際、このサンバーナディーノの一帯では、Amazonの進出で1万5000人以上の正規雇用が生まれました。ただ、それで人びとの暮らしが楽になったかというとそうでもないらしく、誘致に一生懸命だった2012年当時のサンバディーノ市長自身が「前の方が市民の暮らし向きは楽だった。でもないよりまし」とThe Atlanticに語っちゃってますよ。

プライム会員1億人を突破し、第1四半期で前年同期比49%増の54億ドル(約5900億円)を売り上げる快進撃の影で、倉庫ワーカーは今日も仕分けと梱包に励むのでありました。時には尿瓶、フードスタンプなどのお世話になりながら。

おまけ:Amazonからのコメント

米GIZMODOの原稿公開後、当日のうちにAmazon広報から次のようなコメントが届きました。

「Amazonは競争力のある賃金と定期的な昇給に加え、Amazon株式、実績ベースの賞与を従業員に支給しています。健康保険、眼科・歯科保険を含めた手厚い福利厚生を勤務初日から用意し、充実した産休・育休制度、職業訓練受講料、キャリア向上支援ネットワークも提供しています」

翌日、下記コメントに差し替えを求められました。前後を見比べられた方が参考になるかと思いますので併記しておきますね。

「Amazonは昨年1年間だけでも13万人の新規雇用を創出しました。それを誇りに思っています。これらの雇用は大変競争力のある賃金と手厚い福利厚生を備えた質の高い雇用です。米国内の梱包センターにおける正社員の賃金は時給平均15ドル(給与、株式、賞与を含みますが、残業代は含みません)をくだりません。加えて健康保険、眼科・歯科保険、退職金、産休・育休制度を含めた手厚い福利厚生パッケージも用意しているほか、需要の高い職種の職業訓練をキャリアチョイス・プログラムを通して提供しており、こちらは1万6000人以上が受講しています。」



先進国の中でもアメリカや北欧の生活保護は日本と比較した場合かなり手厚く

生活保護者一人当たりの支援金額は日本の6〜9倍にもなっています。




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